オチ・オサムの絵画について

オチ・オサムの絵画について

(黒ダライ児1991年10月6日)

 現代の日本の現代美術業界で、オチ・オサム(Osamu Oti)の名を知っている者はそう多くはないだろう。
 元九州派の一員といえば多少は了解されるだろうが、九州派における彼の活動の重要さは菊畑茂久馬や桜井孝身の影に隠れてあまり知られていない。ましてや、彼が現在に至るまで、驚くべき緊張をもって絵画制作を持続していることを、誰が知ろう。
オチの九州派時代のまともな作品は一点も現存していないが、実は彼はまさにこのグルーブの原点であり原動力であり、他のメンバ一に 先駆けてアスファルトを絵画に使用しオブジェ制作を始めたのである。彼は日常的な物体をきわめて才気あバれる変形を加えただけでグロテスクで衝撃的なオブジェにしてしまうが、当時の一般的な反芸術作品のような表現性の暴発や物量によるこけおどしは全くなく、汚濁に満ちた卑属さと獲得不能な美とのギリギリの緊張感できわどい成功を得たのである。
 1961年の国立近代美術館での「現代美術の実験展」にオチは菊畑とともに出品したが、このときの菊畑の作品が、かの有名な五円玉による『奴隷系図』であり、以後、菊畑は九州派からの自立を果たし『ルーレット』によって歴史に名を残す。オチは対照的に、美術館からの謝礼の安さに絶望して(?)1962年の読売アソデバンダン出品の『出ロなし』を最後にオブジェの制作をやめ、1966年半ばに桜井を追って渡米する。オチの名はこのとき美術史から消える。この渡米中に始められたのが、現在まで延々と続けられる幻想的な絵画である。
 いうまでもなく、オチが渡米した1960年代後半のアメリ力のカリフォルニアといえば、サイケデリックでありフラワー・チルドレンである。オチのこのビジョンがドラッグ経験によるのは確かだろうが、しかし原色の渦やら曼茶羅ふうやらのサイケデリック・アートの類型のどれとも異なるし、今世紀初頭の抽象絵画の周辺に見られる神秘主義の気配もない。乏しいデータから推測すると、最初期は球体の数が少なく 明暗のグラデーションの帯や、チューリッブや魚などの形象と組み合わさっていたようである。
 虚無的な夜の光景の中にかろうじて咲いた希望といった構造は、アスファルト絵画の熱をはらんだ暗黒や、汚らしく安っぽい素材に不調和な優美さを与えたオブジェにも共通して見られるものであり、したがって、オチは幻覚体験によるイメージの陳腐さに流されることはなく、独自の精神世界の連続性を保っていたと思われる。
 しかしこの構造は後に大きく変化し、オブジェから完全に独立した世界を生み出す。初期の単純な構成とエッジと柔らかな球体と具象的な形態による幻想性味は、さらに絵画に即した方法で純化され、あくまで硬質のェッジと明暗法による球体とその軌跡のような線だけが用いられるようになる。たとえば、福岡市美術館所蔵のオチ作品では、『カラスウリは不思議1)1(1976年)にあった有機的な形態は、『球の遊泳1』(1979年)および『小宇宙日記』(1980年)では 姿を消し、構成も垂直・水平を基本とする安定したものになっている。
 サイケデリック・アートの特徴である楽天性と平面性とは反対に、救済を暗示するモチーフは全くな絶望的に冷ややかであり、またひたすら美大受験生のような生真面目さと禁欲をもって、球体は緻密な陰影をほどこされていっそうリアリテイーを与えられる。さらに最近の作品には、次の段階の変化が見られる。球体の並びはまたも不規則になりその間隔は接近し、球の軌跡かレーザー光線のような線はいっそう煩雑になっているが、その結果、それ以前の比較的整合性のある空間構成が崩壊しつつある。アスファルト時代から続いた熱をはらんだ暗黒はずっと背後に押しやられ、後方の球が大きく手前の球が小さいので、イリュージョンは 奥行きに向かわず画面の前に働き、純度を」乱た色彩とも相俟って、今にも球体相互の重力バランスがくずれて、球体は激しく衝突しながら画面の前にころがり出し輝かしい光とともに絵画も現実も破壊してしまかのようだ。臨界点は確実に近づいている。
 画家にとってイリュージョンや絵画空問との対決が必須科目になっている現在、オチがいくら大きさに頼らずに密度の ある鋭さを求めたところで、歴史への復帰は困難だろう。そのイメージにしても、若い作家なら、「こんなイメージなら書的なコンピュータ・グラフィックで簡単にできるさ」「幻覚なんてシンクロ・エナジャイザー」で誰でも安全に味わえるよ」と笑うだろう。しかしオチはいつも僅差で勝つのである。